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ドイツ語特許翻訳の世界(1)

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トランスユーロ株式会社
代表取締役 加藤 勇樹 

1.はじめに

 今回より、ドイツ語特許翻訳に関して連載を始めることになりました。
 本誌への執筆依頼をお引き受けすることにしたのは、本誌2013年10月号の巻頭を飾ったNIPTA 理事長石井正先生の記事を読んで単純に感銘を受けたからに他なりません。まさにこれから我々特許翻訳者が心得るべき理念を言い当てていると感じました。また、本誌前号のNIPTA 理事深見久郎先生の「AIに負けない知財翻訳」についての記事も、我々の直面する問題を的確に捉えていると思いました。このような理念や志に私は素直に深い感銘を覚えました。それなら、私のような者でもNIPTA の活動に少しでも貢献できれば、と拙筆の恥を忍んで寄稿する決意をした次第です。

弊社(トランスユーロ株式会社)は、ドイツ系特許事務所内の翻訳部門が独立して本年1月に開業したばかりの翻訳会社です。私自身、それまで30年ほどドイツ語の特許翻訳に従事して参りました。全国にドイツ語の特許翻訳者が一体どれ位いらっしゃるのか、調べたことはありませんが、少なくとも弊社には、40名程のドイツ語翻訳者が働いています。また、私は2013年から公益財団法人日独協会にて、ドイツ語特許翻訳講座の講師を務めていますが、毎年20を超える申込みがあります。講座には、特許事務所勤務の方、審査官、既に特許翻訳のプロの方などもいらしていますが、多くは将来ドイツ語翻訳者を目指している方々です。思うに、ドイツ語の特許翻訳者もしくはその志望者は、当初私が推測していたよりも多くいらっしゃるようです。しかし、その多くは単独で全国に散らばっていて、身近にスキルアップや情交換の場を持っていない孤立無援状態にある、というのが現状のようです。事実、私の講座には、わざわざ大阪や沖縄などの遠方から足を伸ばして通ってくる方がいらっしゃるほどです。本誌においても、ドイツ語の特許翻訳に関する記事は過去に例がなかったと聞き及んでいます。これを機に、もしも私の寄稿が、全国に散らばっているドイツ語特許翻訳者の意識向上やスキルアップに少しでもお役に立てれば幸いです。

2.ドイツ語という言語について

ドイツ語とは、どのような言語であるのかを簡単に説明します。ヨーロッパ言語の中でも、とりわけドイツ語は複雑で難解な言語であると言われています。ドイツ語圏と呼ばれる国々が存在しており、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなどがそれに当たります。ドイツ語はEU で最も話されている言語です。今やドイツは経済的にも言語的にもEU の盟主であります。しかし、ドイツ語には多様の方言が存在しており、スイスドイツ語などはドイツ人でさえも理解できないほど偏倚しています。使う単語や文法の点でも、方言によって大きな相違があります。もちろん、ドイツ語にも高地ドイツ語(Hochdeutsch)と呼ばれる標準語があり、特許明細書は、基本的にはこの標準ドイツ語で書かれています。

 ドイツ語の特色としては、第1 に名詞に男性、女性、中性の性があることでしょう。これによって、名詞に付く冠詞類や形容詞が複雑に変化します。ドイツ語をはじめとするインド・ヨーロッパ語族の名詞には、元来は男性・女性・中性の区別があったようです。しかし、フランス語では、中性が男性に吸収され、性は男性と女性の2 種類となり、デンマーク語やオランダ語では、なんと女性と男性が融合して「通性」(両性)に一本化されたので、性は通性、中性の2 種類となりました。

ドイツ語の親戚である英語に至っては、性はほぼ失われています。が、例えば「moon(月)」は女性名詞とみなされ、she で受けます。しかし、対応するドイツ語の「月(Mond)」は男性名詞であり、er( he)で受けます。戦時中ロンドンに潜入したドイツ人スパイが美しい月を見て、うっかり「He is beautiful !」と口を滑らせ、ドイツ人であることが発覚してしまったというエピソードは有名です。なぜドイツ語では月が男性名詞なのか、という迷題につきましては諸説あるようですが、その最も萌える(?)ロマンティックな説は、忘れなければ、連載中のどこかでご紹介したいと思います。

 ドイツ語は、緻密で精密な文法を備えていて、性や格変化の複雑な絡みに悩まされる言語でありますが、意外に使い勝手の良い一面もあります。たとえば、本文の中で動詞は必ず2 番目の要素になる、という法則などがそうです。つまり、言い換えれば、この法則さえ守れば、文頭に何を持ってきても構わないということです。

たとえば、Die Pumpe ist über eine Leitungmit einem Ventil verbunden.(そのポンプは管路を介して弁に接続されている)という文があったとして、2 番目の要素に必ず動詞(ist)が来ることさえ守られれば、自在に語順を変えることができます;
Über eine Leitung ist die Pumpe mit einem Ventil verbunden.(管路を介して、そのポンプは弁に接続されている)、
Mit einem Ventil ist die Pumpe über eine Leitung verbunden.(弁にそのポンプは管路を介して接続されている)といった具合ですので、この点では非常に日本語に似ていて訳しやすい構造になっています。

ドイツ語は、極めて論理的な構造を持っています。言語が論理的であるからか、ドイツ人自身もかなり(病的に)論理的な思考回路を持っているようです。ドイツ語は、人間の思考回路を論理的にする作用があるようなので、その意味では特許明細書に適した言語であると云えるでしょう。独和翻訳は、その論理的なドイツ語を、あまり論理的でない日本語に変換するですから、出来上がった日本語文を読むと、日本語らしからぬ窮屈さが感じられて、違和感を覚えることもあります。つまり、日本語に上手く乗せ切れないこともあるのです。 

 また、ドイツ人ならではの論理的な表現が逆に日本語では不明りょうな表現として扱われてしまう場合もあります。
 たとえば、「A はB に対して平行に位置する」という文をドイツ語にすると;
 A liegt parallel zu B.
と書きます。しかし、ドイツ人がこれを表現するときは、たいていの場合、
A liegt mindestens im Wesentlichen parallel zu B.
と書いてきます。新たに加わった「mindestens」とは「少なくとも」、「im Wesentlichen」とは、「実質的に」という意味なので、この場合には;
「A はB に対して、少なくとも実質的に平行 に位置する」という文になります。

つまり、論理的に考えると、実際には絶対的に完全な「平行」などあり得ないので、「少なくとも実質的に平行である」と云える程度の誤差を持って、そして少なくとも発明の作用効果が得られる範囲内の誤差を持って、平行である、と云いたいわけです。たしかに、実際に寸分違わぬ完全な平行などあり得ないので、ドイツ人的表現は正しいはずなのですが、しかしれは日本語的には、ある種の言わずもがな的な表現となるので、かえって構成を不明りょうにする表現とみなされてしまう場合があります。

実際にかなりの頻度で拒絶理由通知(特許法第36 条)を受けました。いわく、「少なくとも実質的に平行とはいかなる平行を意味するのか?」「実際には平行なのか、平行ではないのか?」と云った具合で、ようは「範囲を不確定とさせる表現」とみなされてしまいます。仕方ないので、ドイツの出願人に「少なくとも実質的に」を削除するように提案すると、今度はドイツの出願人から「そんなことをして大丈夫のか?」「なぜ範囲を不確定とさせる表現なのか?むしろその逆ではないか?」と懸念されてしまいます。困ったことに、特にこの「im Wesentlichen」(実質的に)は、いかにも哲学好きなドイツ人好みの論理的表現なので、たいてい明細書の随所に出没します。

 ただ、この「実質的に」については、平成27 年10 月改訂の審査基準において、「範囲を曖昧にし得る表現があるからといって、発明の範囲が直ちに不明確であると判断しない。」とされ、「範囲を不確定とさせる表現」である「実質的に」があっても、発明の範囲は明確であると判断される例があることが追加されています。日独の文化が少し互いに歩み寄った感じですかね(審査基準 第II 部 第2 章 第3  2.(5))。ついでに申し上げておくと、特許法関連で云えば、特許法条約(PLT)への加入に伴う特許法施行規則の改正(平成28年4月1行)により、外国語書面出願の対象言語への非英語言語(つまりドイツ語を含む)の追加が行われたので、ドイツ語で特許出願することも可能になりました。もちろん、あとから日本語の翻訳文を提出しなければなりませんが。

3.ドイツの産業について

ドイツの工業と言えば、やはり自動車産業が挙げられます。ディーゼル(Diesel)さん、ボッシュ(Bosch)さん、オットー(Otto)さん、ポルシェ(Porsche)さん、ダイムラー(Daimler)さん、ベンツ(Benz)さん、ヴァンケル(Wankel)さん。。。。。
たまに、Bosch やDieselをレディースのファッションブランドだと思っている方がいらっしゃるようですが、上に挙げた人達は皆、ドイツ人のエンジン考案者です。ちなみに、フォルクスワーゲン(Volkswagen)は、人名ではありません(「国民車」という意味です)。
 こうした背景から、やはりドイツからの特許出願は、自動車産業のものが多いようです。私がこの仕事を始めた頃は、ディーゼルエンジンの燃料噴射装置は、分配型噴射ポンプ(Verteilereinspritzpumpe) と列型噴射ポンプ(Reiheneinspritzpumpe) の2 種類でした。ガバナと呼ばれる調速機なるものも使われていました。それがある時期から、突然、gemeinsame Schiene という見慣れない噴射システムに取って代わりました。

直訳すると、「共同のレール」となります。当時は、インターネットも無く、今のように自在に世界中の情報を収集することはできません。どの自動車の本に目を通しても、この「共同のレール」なる新しいシステムについて書かれた記事は見つかりませんでした。仕方が無いので、とりあえず「共同のレール」とか「共同の条片」などと訳出していましたが、訳すも審査する側も、手探り状態といったところでした。この技術は、サプライポンプで高圧にした燃料を、各気筒につき共同に(gemeinsam)使われるレール内に蓄え、ECU 制御のもとにタイミングよくインジェクタ(Einspritzventil)から各シリンダに適当な燃料量を噴射するシステムであり、現在では、英語名由来の「コモンレール(commonRail)」という立派な呼び名ですっかりと定着している技術です。残念ながら、「共同のレール」は定着しませんでした。ちょっとイケてない訳語でしたかね(笑)。

 さて、次回からは、もう少し具体的にドイツ語特有の技術用語や技術表現について述べていきたいと思います。タイミング良く、先日、特許庁審査第二部においてドイツ語特有の技術用語を審査官に直接説明する機会を得ましたので、ここで問題となった例をトピックにお話ししようと思います。云うまでもありませんが、「ドイツ語特有の技術用語」を認識するめには、まずは、直面した技術用語が、日本語にはないドイツ語特有の技術概念であるのか否かを見極められる眼力を備えていることが、特許翻訳者に求められる条件です。その見極めができないと、日本語にはない技術概念に対して、既存の別の日本語の技術用語を当てはめてしまったり、逆に、日本語として既に存在している技術概念に対して、的外れな訳をけてしまったり、と云った不幸な結果を招いてしまいます。いかなる技術概念であるのか、その正体を見極め、さらにその文化的歴史的背景にまで想いを寄せ、心を震わせる。これこそが、私の理想とするロックな特許翻訳であり、そして石井先生のお言葉を借りれば、各国言語の文化的・技術的背景の理解にまで及ぶ知識空間全体の変換作業に繫がるのではないでしょうか。