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2019.08.28

神田

KANDA⑥-江戸の青物市場と神田


これまでKANDA①~⑤で見てきた通り、トランスユーロの所在地、神田は江戸時代を通して学問・剣術・交通・信仰・職人技術において中心となるような土地でした。今回はさらに、神田の食物流通の中心地としての側面を紹介したいと思います。皆さんは神田に「青物市場」があったことをご存知でしょうか?

江戸時代の人口と食料調達

江戸は当時のロンドンやパリと並ぶほど、人口の多い都市でした、1826年に日本を訪れたシーボルトは町人・武家を合わせた江戸の人口は少なくとも150万人以上だろうと記しています。なお、江戸=現在の東京ではなく、現代の千代田区とその周辺程度が江戸と呼ばれており、1865年の江戸の面積は79.8 km2と言われています。この過密な人口を支えるために食材の調達は必須で、民間だけに任せてはおけず、江戸幕府も流通を管理していました。

神田に青物市場が出来た経緯

神田の青物市場はもともと土地の名主が開いた私設の市場でしたが、明暦の大火(1657年)の後に、各所の青物市場が集結して、大規模なものとなり、駒込・千住と合せて、江戸の3大青物市場と呼ばれていました。さらに、市場を取り仕切る役所も置かれ、江戸城への野菜の上納を命じられるなど、御用市場としても機能しました。1756年には青物・果物問屋が152軒あったそうですから、どれだけ賑やかだったことでしょう。

さらに神田青物市場は、万世橋の南に位置し、神田川を運河として用いることができたため、商品を運送するのにも適した立地でした。江戸は水路の発達した町でしたので、商売をするには流れが安定した川=運河が近くにあることは、何よりも重要だったのです。(そのため川の普請についての苦労話や逸話はたくさんありますが、それは別の機会に譲りましょう。)

現在の神田青物市場は?

江戸時代が過ぎても市場は発展を続けましたが、昭和に入り、鉄道が発達すると現在の秋葉原に市場は移転しました。水路の時代が終わったのですね。

現在は跡地(千代田区神田須田1-8の神田須田町交差点)に石碑が残るのみですが、神田散策のついでに訪れてみてはいかがでしょうか?

現在東京では「江戸野菜」といって、伝統的な江戸の野菜が出回っています。キュウリやナス、カブなど一般的な野菜でも、その土地独自の品種、味がありますね。東京で農業ができるのか?と驚かれる方もいると思いますが、観光客が行かないような場所にひっそりと存在します。昔ながらの江戸の味を堪能したい方は、江戸野菜をふるまってくれるお店を選んでもいいかもしれません。

 

Photo by Croooooitz / CC 表示-継承 4.0

 


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