日本に初めて降り立ったドイツ人たち -シャムベルゲル、ツァハリス・ヴァーグナー、ケンペル

マンガ、アニメといったポップカルチャーから、茶道、生け花、盆栽などの伝統文化まで、今日では欧米社会で高い知名度を得た日本文化が多くあります。日本とドイツの間において、本格的な外交が始まったのは、1861年に調印された日普修好通商条約以来であり、ドイツの前身であるプロイセンと公式な関係が結ばれました。

しかし、それ以前、鎖国政策がとられていた江戸時代にも、オランダ人と称して、ドイツ人が来日していたのです。

今日の長崎
今日の長崎

 西洋医学の礎を築いたシャムベルゲル、伊万里焼とツァハリス・ヴァーグナー

 

1639年から1854年の215年の間、日本は、キリスト教弾圧のために、諸外国への渡航、通商、交通を規制し、オランダのみがヨーロッパ内で唯一、日本との交易が許されていた国でした。貿易の拠点である東インド会社のオランダ商館は、長崎、平戸、そしてのちに出島に置かれました。

オランダとの交易だけが許されていたとはいえ、東インド会社には、様々な国籍の人間が在籍しており、日本に派遣される人間の中には、ドイツ人やスウェーデン人もいたのです。彼らが歴史上、初めて日本に降り立ったドイツ人といえます。

そのうち一人、ライプツィヒ出身のカスパル・シャムベルゲル(1623~1706)は、1649年から1651年の二年間、オランダ商館付きの医師として来日し、治療と西洋医学の伝授に従事しました。彼の治療法は、カスペル流外科といわれ、日本において西洋医学への関心を呼び起こした第一人者とされています。

そして、1657年に出島のオランダ商館長として来日したツァハリス・ヴァーグナー(1614~1668)は、ドレスデン出身でした。彼は伊万里焼の輸出を本格化した人間でもありました。中国の陶磁器を見本に、ヨーロッパ人の好みに合うものを依頼したとのことです。コバルトブルーの素地に黄金のデザインを施したものはヴァーグナーの考案でもあり、今日でも引き継がれています。

江戸城で西洋のダンスを披露するケンペル『日本誌』より
江戸城で西洋のダンスを披露するケンペル『日本誌』より

 

 徳川綱吉にも謁見したケンペル

 

そして、エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)は、今日のノルトライン=ヴェストファーレン州、レムゴー出身の医師、博物学者でした。彼もオランダ商館の医師として派遣され(1690~1692)、江戸参府では徳川綱吉にも謁見し、江戸城では西洋のダンスまで披露したそうです。(上図参照)

ケンペルが日本での見聞をまとめた『日本誌』(原文はラテン語)は、ケンペルの死後に英訳出版され、続いてフランス語、オランダ語、そしてドイツ語版が遅れて出版されました。ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューといった近代ヨーロッパの知識人、哲学者、文豪の間でも愛読され、19世紀ヨーロッパにおける「ジャポニズム」のきっかけともなりました。

『日本誌』では、客観的な目線で日本が観察されており、ヨーロッパにおける日本人観の礎にもなり、日本の開国のきっかけを作ったペリーも、日本への来航の際、シーボルトの著作と、ケンペルの『日本誌』を携行していたそうです。

17世紀の日本を見たドイツ人の気持ち、そして一朝一夕では築けない両国の歩みの中に歴史のロマンを感じますね。


 参考HP

参考文献

  • ドイツに渡った日本文化 寺澤行忠 明石書店 2017

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