
ロマンシュ語ってどんな言語?
目次
本ブログでは今まで何度かにわたってスイスにドイツ語、フランス語、イタリア語およびロマンシュ語という4つの公用語があることに触れてきました。
日本の皆様からすれば公用語がいくつもあること自体が既に不思議な状況であるだけでなく、その内訳についても違和感を抱く人が少なくありません。
というのも、ドイツ語、フランス語、イタリア語に関してはメジャーな言語であることからよくご存知である一方、4カ国語目のロマンシュ語は殆どの人がまず耳にすることのない詳細不明の言語だからです。
そのため、読者の中にも過去の記事で登場した際に「ロマンシュ語ってそもそも何?」と、思った方が多いのではないでしょうか?
そこで、今回はスイスの第4公用語でありながらも、世界の大半にとって得体の知れないロマンシュ語について色々とご説明させていただきます。
ラテン語から派生したラエティア地方独自の言語
ロマンシュ語がどのような言語であるかを正しく理解するためにはまずその歴史を探る必要があります。
今からおよそ2000年前の紀元前15年にローマ帝国はアルプス以北の征服に乗り出し、ゲルマニア(Germania)やバルカン半島を初め、現在のスイス東部・ドイツ南部・オーストリア西部ならびにイタリア北東部に跨る「ラエティア」(Raetia)を手中に収めました。
その際、当該地域に派遣された兵士や役人がラテン語を口語として持ち込んだことで地域住民の間でもラテン語が主要言語となったのです。
とはいえ、元々地元で存在していた地名に加え、動植物相などに関する以前からの様々な表現は引き継がれたので、本来のラテン語とは異なる独自の方言が確立されました。
また、476年に(西)ローマ帝国が崩壊すると、ラエティアは一時的に東ゴート王国、ならびにフランク王国の支配下に置かれたものの、政治的にはかなりの自決権を有していたことから、異文化の影響を受けることは殆どありませんでした。
さらに、ラエティアは150にも上る険しい渓谷地があり、自給自足で孤立状態に近い山村や集落が多かったせいで、外部との交流も極めて少なかったため、ラテン語から派生した方言が、次第に独立した言語である「レト・ロマンス語」へと発展したと考えられます。
ただし、シャルル大帝によって神聖ローマ帝国が誕生してからはラエティアの大部分でドイツ語化が進み、特にドイツ南部やオーストリア東部に当たるラエティア北部においてはレト・ロマンス語が徐々に姿を消すことになりました。
スイス東部とイタリア北東部を含むラエティア南部に関しても減少傾向が見受けられたのですが、その影響はアルプス山脈に位置する山村までは行き届いていませんでした。
しかも、このような状況は近代以降にスイス東部でドイツ語、イタリア全土でイタリア語が標準語として導入された際も変わらず続いたことで、レト・ロマンス語はスイスおよびイタリアでアルプスに囲まれた山間の僻地に点々として散在しながらも今日まで残ったと言えます。
そして、そんなレト・ロマンス語には現在大きく分けてイタリア北東部のフリウーリ地方(Friuli)で使用される「フリウリ語」、同じイタリア北東部のドロミーティ山地(Dolomiti)で用いられる「ラディン語」、ならびにスイスのグラウビュンデン州(Kanton Graubünden、Chantun GrischunまたはCantone dei Grigioni)で話される「ロマンシュ語」の3つのバリエーションが存在し、後者が今回詳しくご紹介するスイスの第4公用語です。

スイス人の約0.5%しか話せない超希少な言語
上述の通り、レト・ロマンス語は元々広範囲な言語圏を形成していましたが、時代と共に進んだラエティアのドイツ語化によって徐々に衰退し、今ではアルプス山脈に位置する一部の渓谷地で、飛び地として残っているいくつかの小規模なエリアでしか使用されていません。
それらの中でもスイスのグラウビュンデン州でのみ確認されているロマンシュ語に関しては、そのエリアが明白に区切られておらず、ドイツ語が主流の言語として定着している地域でロマンシュ語話者が一定数の割合を占めているのが現状です。
したがって、ロマンシュ語が単一言語になっている場所はもはや存在しませんし、ロマンシュ語だけで生活が成り立っている人もいないと言えます。
日本に例えれば琉球諸語と似たような状況です。
日常会話は「うちなーぐち」で話しても支障はないものの、行政手続きや学校教育、さらに就職においては標準語ができないといけません。
それと同様にロマンシュ語も日常会話では用いられる一方、それ以外の場面ではドイツ語またはイタリア語が不可欠ですので、ロマンシュ語話者は基本的にバイリンガルである必要があります。
そのため、現在どれほどの数のロマンシュ語話者がいるかについては正確に把握できていないのが事実です。
また、それに応じてスイス連邦統計局(BFS)が定期的に行っている国勢調査でも「母語」ではなく、あえて「最も得意な言語」(単一回答のみ)と「学校や仕事で使う言語」(複数回答可)を尋ねるようにしています。
そして、2021年に行った調査で最も得意とする言語がロマンシュ語と回答した人は39,948名という結果が出ました1。
割合で言えば、これはスイスの全人口の約0.5%に過ぎず、ロマンシュ語が他の3つの公用語と比べて話者が如何に少ないかを示しています。
しかも、過去数十年で移民が著しく増加したことによって、今やロマンシュ語はスイスの公用語でありながらも人口に占める割合でポルトガル語(3.5%)、アルバニア語(3.2%)、スペイン語(2.4%)、ならびにセルビア・クロアチア語(2.3%)にすら負けているのです2。

スイス人の連帯意識に含まれる言語
こうした厳しい現実に直面しているロマンシュ語がスイスの公用語になっているのには、様々な背景があります。
まず、グラウビュンデン州においては中世以降に行政関連でドイツ語が一般的だっただけでなく、時には地元住民に反してまで強引にドイツ語を押し付けたケースも見られました。
その代表例とも言えるのが、郵政および鉄道です。
19世紀後半にスイス郵便が全国的なネットワークを構築し、各自治体に支店を設置した際、それらの管理と業務は同じ言語で行うのが好ましいと考え、ロマンシュ語の地名を全てドイツ語に置き換えて、支店名や登記簿、消印にもドイツ語名のみを用いたのです。
それに伴い、スイス連邦鉄道も郵便局の支店名に合わせて全駅名をドイツ語で表記することを決めました。
これは州民の間で大顰蹙を買ったので、1880年ならびに1892年に発効したそれぞれの州憲法ではドイツ語、イタリア語、およびロマンシュ語を正式に公用語として定めた他、それら全てを同等に扱うことまで盛り込んだのです。
その結果、今日まで約70の自治体が地名をロマンシュ語に戻す、もしくは「ディセンティス/ムシュテール」(Disentis/Mustér)のように2カ国語を併記することにしました。
したがって、州レベルではそういった差別的な要素も含まれていたドイツ語化に歯止めを掛けて、言語の平等性を確保する意図が最大の動機でした。
一方、国家としては別の意味でロマンシュ語話者を保護する必要がありました。
というのも、1861年に誕生したイタリア王国は全てのイタリア系民族の統一を掲げていたものの、一部地域を獲得できずにいたのです。
また、1915年のロンドン条約ではそれらの「未回収のイタリア」の譲渡が約束されたこともあって、イタリア王国はスイスのイタリア語圏に加え、ロマンシュ語圏に対しても領有権を主張しました。
そして、その後成立したファシズム政権下ではそういった動きがさらに激化し、スイスの分裂まで試みたのです。
しかし、スイスのイタリア語とロマンシュ語話者はそんなイタリアに耳を貸すどころか、逆に自身がスイス文化の共有者であり、スイス国家に属する意思を表明しました。
さらに、スイス連邦政府もそれに準ずる毅然とした態度を示すため、ロマンシュ語をスイスの第4国語にすることにしたのです。
その最終決定は1938年2月20日の国民投票で行われ、なんとスイスの歴代国民投票で出た3番目に高い91.6%という驚異の賛成率で可決されました3。
この結果は国民の9割以上がロマンシュ語圏に対する連帯意識を持っていることを反映したことから、特にその直後に始まった第二次世界大戦においてスイスの言語圏を超えた団結力の形成にも繋がったと言えます。
「ルマンチュ・グリシュン」の普及
このように、ロマンシュ語は今から87年前にスイスで少数言語から国語になりましたが、実は行政機関との関連で使用する「公用語」という位置付けではありませんでした。
つまり、需要に応じてロマンシュ語を学校の科目として導入したり標識をロマンシュ語表記にしたりすることは可能で、グラウビュンデン州では実際に行われてきたものの、行政手続きにおいてロマンシュ語で書類を提出するなどはできなかったのです。
したがって、グラウビュンデン州をはじめ、ロマンシュ語を推進する団体は国語でありながらも実用性の低さがロマンシュ語の衰退を引き起こしていることをアピールし、連邦政府に対して現状の改善を要求しました。
その結果、1996年3月10日に連邦憲法の言語条項である第116条(現第70条)の改正についての国民投票が実施され、ロマンシュ語を「部分的公用語」(Teilamtssprache)にすることが可決されました。
ここでいう「部分的」とは省庁などの連邦機関が全面的にロマンシュ語に対応する必要はないけど、ロマンシュ語話者のみ、政府とのやり取りをロマンシュ語で行う権利があることを指します。
さらに、口語に関してはドイツ語圏で標準ドイツ語以外にスイスドイツ語の各種方言で会話ができるのと同様に、ロマンシュ語でもそれぞれの方言を使用することが許可されているのです。
これは当初予想を遥かに超える大きな課題でした。
何故なら、ロマンシュ語には「スルスィルヴァン」(Sursilvan)、「ストスィルヴァン」(Sutsilvan)、「スルミラン」(Surmiran)、「プテール」(Putér)および「ヴァラーデル」(Vallader)と呼ばれる独自の口語と文語を有する5つのイディオムに加え、口語のみが存在する「トゥアチン」(Tuatschin)、「メデリーン」(Medelín)、「ヤウエル」(Jauer)といった多数の方言もあるからです。
しかも、各イディオムと方言は発音のみならず、文法的にも相当な違いがあり、距離が比較的近いものであれば大した支障はない一方、地理的に最も離れているスルスィルヴァンとヴァラーデルを話す人がそれぞれのイディオムで会話すると意思疎通が難しいことすらあると言われています。
そこで、せめて統一された文語があればとの思いから、1982年に開発され始めた共通文語である「ルマンチュ・グリシュン」(Rumantsch Grischun)が2001年に連邦機関で公用語として採用されることになりました。
それに伴い、以降は連邦政府の発行物やウェブサイト等でこのルマンチュ・グリシュンを使ったドイツ語、フランス語、イタリア語、ならびにロマンシュ語の全公用語での公表が急激に加速したのです。

「ルマンチュ・グリシュン」の普及共通文語を巡る対立
これまでの説明でもご理解いただけると思いますが、スイス連邦政府がロマンシュ語との関連でこの数十年間行ってきた政策や取り組みは大幅に増えました。
絶滅に瀕している言語を維持する意味ではまだまだ不十分な面もあるものの、スイス公共放送局を通じてラジオ・テレビ番組の一部をロマンシュ語で全国放送するなど、昨今は特にメディアを取り込んだ様々な普及活動が目立っています。
さらに、国際的な企業との連携にも積極的に乗り出し、2006年にはMicrosoft社の「Office-Suite」でルマンチュ・グリシュンのスペルチェック機能が追加された他、あのGoogle検索においても言語設定でロマンシュ語が選択可能になったので、スイスの公用語というステータスを得ただけあって、官民が協力して多様な推進や支援が実施されているのです。
しかし、ロマンシュ語話者の間ではこうした近年の動きに対して異議を唱える人が増加傾向にあります。
というのも、ロマンシュ語が使用されている唯一の州であるグラウビュンデン州は、1996年に連邦政府と足並みを揃えて共通文語のルマンチュ・グリシュンのみを公用語として使用することを決めました。
それに伴い、投票資料をはじめ、以前までは各方言で公表された州政府の発行物を共通文語だけで記載されることになり、学校教育でもそれぞれの地方特有のイディオムを廃止してルマンチュ・グリシュンへの統一が進められたのです。
当初は州民の多くがこの政策に賛同し、2011年までに公立学校において、ロマンシュ語を国語として教えている自治体の約半分が各方言に代わって共通文語を導入しましたが、10年後の2021年にその方針を継続していたのはクール(Chur)、ドマト/エムス(Domat/Ems)、ならびにトリン(Trin)の3自治体のみで、それ以外では住民投票で方言へ復帰することが決定しました。
つまり、ロマンシュ語話者同士のコミュニケーションを容易にするために統一言語として開発され、連邦政府も積極的な普及に努めているルマンチュ・グリシュンは、よりによってその恩恵を受ける筈のロマンシュ語話者たちから拒絶されたのです。
その背景にはルマンチュ・グリシュンが数百年にわたってその地域で育んできた歴史的・文化的遺産ではなく、最も話者数の多い3つの方言から最大の共通点を取り込んで人工的に作られた「落としどころ」みたいな言語なので、話者がそれを自身のアイデンティティと認識するには相当な無理がある他、本来のロマンシュ語を排除して衰退を加速させているとの意見があります。
したがって、現在はロマンシュ語話者の間でルマンチュ・グリシュンの普及を支持する側と、共通文語を廃止して方言への復帰を支持する側に分かれている状況で、それらの対立は今後さらに激化すると考えられます。

おそらく読者の殆どの方にとって未知の領域である「ロマンシュ語」のご説明は以上になりますが、いろいろと参考になったでしょうか?
日常生活ではまず触れることもありませんし、ロマンシュ語が話せるという人物に出会える確率もかなり低いことから、このような場をお借りして歴史や現状について語らせていただき、少しでも皆様のご興味を引くことができたのであれば幸いです。
また、文章のみではロマンシュ語の響きや発音まではお伝えできないので、実際のロマンシュ語を聞いてみたい人はYouTubeなどで配信されている動画を視聴してみることをお勧めします。
私自身も本記事を執筆する際に様々なロマンシュ語動画を確認させていただき、言葉を聞き取るのに大変苦労しましたが、どのような言語であるのかという雰囲気だけは何となく掴めました。
さらに、動画を観ている時にロマンシュ語のヴァラーデル方言で肯定を表現する言葉が偶然にも日本語と全く同じ「hai」(はい)であることを知り、少しテンションが上がりました。
したがって、皆様も是非一度ロマンシュ語に触れて自分なりの発見をしてみては如何ですか?
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
1出典:スイス連邦統計局「郡別主要言語、2019~2021年累計」:https://www.bfs.admin.ch/bfs/de/home/statistiken/kataloge-datenbanken.assetdetail.24311536.html
2出典:スイス連邦統計局「国勢調査2020 主要言語として回答された言語」:https://www.bfs.admin.ch/bfs/de/home/statistiken/bevoelkerung/sprachen-religionen.assetdetail.21344054.html
3出典:スイス連邦統計局「連邦国民投票:結果の詳細」:https://www.bfs.admin.ch/bfs/de/home/statistiken/bevoelkerung/sprachen-religionen.assetdetail.21344054.html
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
集落 | Siedlung
(スィードルング) |
Sidlig
(スィドリク) |
交流 | Austausch
(アウスタウシュ) |
Uustuusch
(ウーストゥーシュ) |
僻地 | abgelegene Gegend
(アプゲレーゲネ・ゲーゲント) |
abglägäni Gägänd
(アプクレゲニ・ゲゲント) |
学校教育 | Schulbildung
(シュールビルドゥング) |
Schuelbildig
(シュエルビルディク) |
国勢調査 | Volkszählung
(フォルクスツェールング) |
Volkszählig
(フォルクスツェーリク) |
仕事 | Arbeit
(アーバイト) |
Arbet
(アルベト) |
郵政 | Postwesen
(ポストヴェーセン) |
Poschtwese
(ポシュトヴェセ) |
歯止め | Bremse
(ブレムセ) |
Brämsi
(ブレムスィ) |
団結力 | Zusammenhalt
(ツサンメンハルト) |
Zämähalt
(ツェメハルト) |
容易にする | erleichtern
(エアーライヒテアーン) |
erliächtäre
(エルリエフテレ) |
参考ホームページ
スイス歴史辞典:ロマンシュ語:https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/024594/2012-06-19/
スイス公共放送協会ロマンシュ語放送局:「ロマンシュ語:事実と数字」:https://www.rtr.ch/emissiuns/decodar-nossa-cultura/raetoromanisch/fakten-geschichte/fakten-und-zahlen-raetoromanische-sprache
スイス連邦外務省:ロマンシュ語~スイスの第4公用語に着目~:https://www.eda.admin.ch/aboutswitzerland/de/home/swiss-stories/raetoromanisch-vierte-landessprache.html
ロマンシュ語統括組織「リア・ルマンチャ」:https://www.liarumantscha.ch/de

スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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