国民投票の多い国スイス

日本人に「スイスの大統領って誰?」と、聞かれることが度々あるのですが、その回答にはいつも困ります。というのも、スイスは大統領制でもなければ1人の人物が内閣の首班となることもないので、強いて言うなら国民がそれに最も該当するからです。

また、スイスと言えば単純に「永世中立国」を思い浮かべる方も少なくないと思いますが、スイスの政治体制を一言で表すには少々無理があります。そのため、今回はそのような疑問の多いスイスの政治について色々とご説明させていただきます。 

直接民主制

 

どの国においてもその政治体制を理解する上で最も重要なのは国家の統治権が誰にあって、主権者が誰であるかを理解する必要があります。現在では大半の国で国民を主権者とする民主制が導入されていますが、その多くでは国民が代表(議員)を選び、それらの代表が政治家として立法権を行使する構造が見られます。スイスに関してもこれは全く同じなのですが、他国と大きく異なる点が民主制の在り方です。日本を初め、数々の民主国家では議員のみを投票により選出し、それ以外に国民が政治に関与しない間接民主制になっているのに対し、スイスでは議員を投票により選出した後も国民が立法や法改正に積極的に参加する直接民主制が採用されているのです。それは具体的にどういうことかというと、日本では国会で法案が提出され、議論を重ねた末に議会で投票を行い、新たな法律を作ったり、既存の法律を改正したりして国民がそのプロセスに参加することはありません。しかし、スイスでは法案の提出、議論、議会での投票までが政治家の仕事で、立法や法改正の可決または否決に関する最終判断は国民投票で決まります。また、国民投票は全国的に適用される連邦法のみならず、州法ならびに自治体の決定においても実施されるので、国・州・市町村の全ての行政区分で国民が政治の主役であると言えます。それ故、スイスでは国民投票は年中行事のように頻繁に実施されています。中でも、内政、外交、予算など国家にとって特に重要な内容に関する案件については毎年4回にわたって、複数の立法および法改正をまとめた国民投票が行われ、国外在住のスイス人であっても投票に必要な書類一式が郵送されますので、私自身も日本に住みながら度々スイス人として投票に参加しています。

国民投票に先立って郵送される投票用紙(Stimmzettel)、投票権証明書(Stimmrechtsausweis)および投函用の封筒(Stimmzettelkuvert)と投票対象法案の解説書(Abstimmungsvorlage)
国民投票に先立って郵送される投票用紙(Stimmzettel)、投票権証明書(Stimmrechtsausweis)および投函用の封筒(Stimmzettelkuvert)と投票対象法案の解説書(Abstimmungsvorlage)

 

「レフェレンドゥム」と「フォルクスイニツィアティーフェ」

 

スイスでは国民が政治の中心なら、そもそも政治家は不要ではないかとの疑問が湧いてきますよね?しかし、決してそういうわけではございません。スイス国民は他の国と同様に議員を選び、彼らが立法権を行使して国政を行います。自ら選んだ代表である政治家には信頼を寄せていますし、国民のために全力を尽くしますから安心して国政を任せられます。ただし、皆さんもご存知のように、政治家とは必ずしも国民の期待に応える存在であるとは限りません。そのような場合、スイスでは主権者である国民が、本来なら議会の賛成多数で可決されれば発効する法案に対して異議を申し立て、国民投票にかけて当該法案の可決についての最終判断を下すことができます。日本語では国民表決などで知られているこの制度はレフェレンドゥム(Referendum)と呼ばれ、5万人の有権者が署名で国民投票を希望する意思を示せば、法律等を国民投票にかけることができるのです。また、議会で可決される法案以外にも、国民の関心があるにも拘らず政治家がその必要性を軽視したり、意図的に発議を避けたりする事態が発生することもあります。このような場合は国民がフォルクスイニツィアティーフェ(Volksinitiative)と言う、いわゆる国民発案を可能にする制度もあります。この制度に関しては10万人の有権者による署名が必要ですが、その数が集まった時点で議会は審議を行い、法案を提出する義務を負い、最終的に国民投票でその可決または否決が判断されます。

国民議会と全州議会から成る連邦議会

 

ご説明した通り、スイス国民は政治家を上回る政治的権利を行使することができますが、それは国民と政治家の間に溝が生じて、その必要性がある場合に限りますので、通常はスイスでも政治家が他の国と同様に政治の中心です。その政治家ですが、スイスでは国会がどのように構成されているかご存知ですか?簡単に言いますとスイス連邦の立法機関である連邦議会には「ナツィオナルラート」(Nationalrat)と呼ばれる国民議会と「シュテンデラート」(Ständerat)の名で知られる全州議会の2つの議会があります。これは二院制と言う意味では日本の参議院と衆議院に似ていますが、その内容や構造は大きく異なります。日本の両院はいずれも国民の代表であるのに対し、スイスでは国民議会のみがそれに当たり、全州議会は州代表なのです。即ち、国民議会の議員は人口10万人につき1名が選ばれるので、当然ながら人口の割合に応じて都会と地方でその数が異なります。しかし、それでは人口の多い地域が優勢となり、万が一特定の地域が全人口の過半数を超えるような事態が発生すれば事実上議会を支配することになり、その他の地域住民の意見が反映されなくなります。そのため、全州各2名(準州は各1名)の代表者から構成される全州議会があり、全26州が人口とは無関係に平等の立場で意見を主張することができます。そして、立法や法改正の際は両院で個別に過半数を超えないと可決しないのです。したがって、スイスで法律は国民を代表する国民議会の賛成多数だけでなく、26州の賛成多数も得て初めて成立するのです。しかし、既に述べたように、それに国民が納得しない場合は、さらに国民投票でも過半数を得る必要があります。そのため、スイスの政治家は常に国民に監視されていることを意識し、国民の鋭いメスが入ることを恐れて理解が得られない法案や強行採決などに踏み込むことができないのが現状です。

連邦議事堂にあるナツィオナルラートの会議場 (前方中央には「アイトゲノッセンシャフト発祥の地」と題したリュトリを描いた油絵がある)
連邦議事堂にあるナツィオナルラートの会議場 (前方中央には「アイトゲノッセンシャフト発祥の地」と題したリュトリを描いた油絵がある)

 

連邦内閣

 

スイスには国民議会と全州議会の立法機関以外にも行政権を行使する機関として「ブンデスラート」(Bundesrat)と呼んでいる連邦内閣があり、これは日本でいう内閣に該当するものと言えます。しかし、日本の内閣では内閣総理大臣が首班となり、国会議員や民間人から各種国務大臣を任命するのに対し、スイスの連邦内閣の閣僚は国会議員でない人物がそれぞれ個別に両議会の多数決で選出されます。また、連邦内閣の閣僚は全部で7名いて、それぞれが外務省、内務省、法務省、財務省、防衛スポーツ省、文部科学研究省、環境交通通信省の計7省の省長という役職に付きます。ただし、省長として在任できるのは1年間のみで、各連邦内閣の閣僚はローテーション制で毎年変わります。それと同時に、7名のうちの1名が1年ずつ輪番制で連邦大統領(Bundespräsident)、もう1名が副大統領(Vizepräsident)に任命されますが、これは決して首相や副首相を意味する訳ではなく、閣僚会議の議長と副議長を務めることを指しているに過ぎません。そのため、スイスは通常首脳会議を行うことはありませんし、万が一行ったとしてもそれに出席する連邦大統領はスイスの代表者または連邦内閣の代表者という立場では出席できず、あくまでも自身が担当している省の長として参加します。さらに、連邦内閣は合議制となっているため、1人の閣僚が独断で決定を下す権限はないので、省庁に関する決定には常に7名の閣僚の賛成多数を要します。そのような理由から、省長である閣僚は「大臣」というより「長官」に匹敵するため、スイスには首相どころか大臣すらいないと言った方が正確です。

ナツィオナルラート、シュテンデラート、ブンデスラートの3議会があるベルンの連邦議事堂
ナツィオナルラート、シュテンデラート、ブンデスラートの3議会があるベルンの連邦議事堂

 

少々難しい話になってしまいましたが、スイスの政治体制をご理解いただけましたでしょうか?また、私がスイスの大統領は誰かと聞かれる際に困る気持ちもご納得いただけましたか?因みに、スイスは大した政治体制を持っていると感心した方も少なくないと思いますが、スイスの直接民主制は決して新しいものではないのです。既に何回かにわたってご紹介しましたが、スイスはハプスブルク家および神聖ローマ帝国に対する不満がきっかけで独立国を形成したため、自由と自治に依存する気持ちが非常に強いのです。したがって、各州では独立した当初から住民投票による政治が主流でしたので直接民主制はスイスの根本的な一部だけでなく、スイスのアイデンティティそのものであると主張する人までいます。政治学者の中には毎回国民投票を実施すれば時間が掛かって費用もバカにならないことから非効率的な体制であり、緊急事態宣言など迅速な対応が求められる場合に遅れが生じてしまうとの意見もあります。しかし、スイス人は一般的に政治を政治家に任せており、必要があると感じた時のみブレーキを掛けるために政治的権利を利用しているケースが多いことから、そのような批判はあまり当てはまらないと言えます。さらに、主権者である国民が自ら国家の運営に関与すべきでない理由はどこにもありませんし、国民の意思に基づく政治を行うために手間暇を惜しむことを決して非効率的と呼んではいけないと私は思います。

では

Bis zum nöchschte mal!

Birewegge


今回の対訳用語集

日本語 標準ドイツ語 スイスドイツ語
議員 Abgeordnete

(アプゲオートネテ)

Abgordneti

(アプゴルドネティ)

投票する abstimmen

(アプシュティンメン)

abschtimme

(アプシュティメ)

直接民主制 direkte Demokratie

(ディレクテ・デモクラティー)

direkti Demokratii

(ディレクティ・デモクラティー)

参加する teilnehmen

(タイルネーメン)

teilnäh

(タイルネー)

可決する annehmen

(アンネーメン)

aanäh

(アーネー)

否決する ablehnen

(アプレーネン)

ablehne

(アプレーネ)

頻繁に häufig

(ホイフィク)

hüüfig

(ヒューフィク)

期待 Erwartungen

(エアヴァートゥンゲン)

Erwartige

(エルヴァルティゲ)

平等 gleichberechtigt

(グライヒベレヒティヒト)

gliichberächtigt

(グリーフベレフティクト)

Ministerium

(ミニステーリウム)

Departement

(デパルテメント)


参考ホームページ

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