ここがすごいよ、シーボルト!

歴史の授業でも習うシーボルト。鎖国時代にオランダからの使者として、長崎・出島に派遣された医師というのが一般的な認識で、名前だけ知っているという方も多いかもしれませんが、印象深い逸話も多いのです。今回はその中から、ここがすごいよ、シーボルト!と題して、興味深いエピソードを6選お届けします。

川原慶賀筆 シーボルト

1.   山オランダ出身⁉

 

フィリップ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、現ドイツ、ヴュルツブルク出身の医師、博物学者で、江戸時代、鎖国政策のため、オランダ、中国とのみ国交があった日本のオランダ商館の医師として1823年に初来日しました。

とはいえ、シーボルトはドイツ人。ドイツ語とオランダ語が似ているとはいえ、やはり入国審査の際には疑いをかけられました。しかし、『自分はオランダでも、山の方の出身の「山オランダ人」だから訛っているんだ』といって、切り抜けたそうです。オランダ―ニーダーランド(低い土地という意味)は、その名の通り、低地地帯の干拓地なので、山なんてないんですけどね!

2.オランダ商館医、博物学者、そして特命調査員として

 

オランダ商館付きの医師として入国したシーボルトは、日本に西洋医学を普及するため長崎の郊外で鳴滝塾という私塾も開き、また無償の診療行為も積極的に行っていました。また、医師としての業務の傍ら、日本の動植物の研究、そして日本の政治・軍事情報収集するという特命を受けた調査員でもありました。滞在中には、日本地図、江戸城、大阪城の地図をはじめとした様々な国外持ち出し禁止の資料や美術品などを入手しましたが、この特命がシーボルト事件を引き起こすきっかけともなったわけですね。

写真はイメージです

3.日本に初めてピアノを持ち込んだ!

 

7月6日は『ピアノの日』というのをご存じですか?これは1823年7月6日に初来日したシーボルトが、ピアノを初めて日本に持ち込んだことに由来しています。この日本最古のピアノは、現在でも山口県萩市の熊谷美術館に保存されています。

4.楠本たきを伴侶とし、その娘イネは日本初の女医となる

 

来日して間もなく、シーボルトは楠本たきという遊女を伴侶としました。その間に生まれた娘、イネは日本人で初めて産科医として西洋医学を学び、日本初の女医となりました。また、博物学者だったシーボルトは、アジサイの新種を記載する際に、たきの名前をとり、「Hydrangea otaksa(オタクサ)」(おたきさん)と命名しました。シーボルトって愛妻精神溢れるロマンチストだったようですね…。

5.葛飾北斎に直接絵の執筆を依頼

 

オランダ商館医として、長崎から江戸参府を許されていたシーボルトは、長崎から江戸への道中、様々な学者、医者、要人たちと交流しています。その中には葛飾北斎もおり、シーボルトは北斎に絵の執筆も依頼していたとのことです。シーボルトが持ち帰った北斎の肉筆で描かれた作品は、2016年にオランダ、ライデンの国立民族博物館で見つかったそうです。

6.アレクサンドル、ハインリッヒ―子供たちへと受け継がれる日本への愛

 

シーボルト事件を経て、1829年に国外追放となったシーボルトでしたが、1858年、日蘭修好通商条約の締結により、追放も解除となったため、1859年に長男アレクサンドルと共に再来日しました。アレクサンドルはその後、日本の英国公使館で通訳を務めた後、明治政府の秘書、翻訳官なども務め、日本の外交と近代化に大きく貢献しました。また、次男ハインリヒも、父シーボルトの研究資料整理を手伝う傍ら、日本への憧れを膨らませ、兄と共に外交職務に従事し、大森貝塚での発掘などにも取り組み、日本の考古学研究にも大きく貢献しました。

このように、シーボルト一族と日本の関係は、このブログでは語り尽くせない歴史があるようです。

今年、2020年8月19日から23日の間、総合演出家、木村ひさし氏によって『シーボルト父子伝』という舞台も東京、築地ブディストホールにて開催予定されるそうですよ!

(公式twitter https://twitter.com/butai_koto

いかがでしたでしょうか。日本の歴史上にもシーボルト事件としてその名が残るだけあって、シーボルトの様々な逸話、功績は今日にも語り継がれ、彼の功績を称賛し、元祖クールジャパンとの声もあがっているほどです。そう言われるのも、今とは違って外国が遥か遠い「異国」であった時代の人々の、知的好奇心と冒険ロマンに共感するからではないでしょうか。


参考HP

 

 

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