ベルンの奇跡

まもなく、4年に一度開催されるサッカーワールドカップが開幕し、日本を始め、各国ではサッカーフィーバーが高まっていますね?

今回は3カ国が開催地になっているだけでなく、チーム数に関しても48カ国が出場して計104試合を行いますので、様々な観点から今までにない最大規模の大会になることが話題になっています。

一方で、選手、スタッフ、関係者、そしてサポーターにとっては試合ごとにとんでもない距離を飛行機で行き来する必要があり、大会関連のインフラ整備も大量の二酸化炭素排出を伴うため、本大会が「気候災害」以外の何でもないとの批判も出ています。

さらに、観戦チケットも史上最高額で取り引きされている他、対戦チームの魅力度によって金額が変動し、一定でないことへの不満も寄せられている状況です。

そのため、本大会は色々な意味で注目されており、今後の大会の在り方を見直すきっかけに繋がる評価を受けることになるでしょう。

そんなサッカーワールドカップですが、皆様は過去にスイスも開催国だったことをご存知でしょうか?

かなり昔なので、日本人でそれが記憶に残っている方は殆どいない可能性が高いものの、実は1954年の第5回大会が、なんとスイスで実施されたのです。

しかも、その際に「ベルンの奇跡」と呼ばれる、熱烈なサッカーファンの間で今も語り継がれる出来事がありました。

したがって、今回はサッカーワールドカップのスイス大会と「ベルンの奇跡」についてのお話をさせていただきたいと思います。

 

 

スイス大会の実現に至った経緯

 

 

1863年にイギリスで設立されたサッカー連盟(Football Association)によって、それまで統一されたルールがなかったサッカーが、初めて競技として位置づけられるようになりました。

当時のイギリスは、数多くの植民地・海外領土・租借地を有する帝国として世界的に最も影響力を持つ国だったこともあり、サッカーは短期間で各国に広まり、その存在が知られることになったのです。

その後、ヨーロッパを始め、様々な国々で次々と独自のサッカー連盟が誕生し、1872年に早くも史上初の国際試合が実現すると、1904年には国際サッカー連盟(FIFA)の創立にまで至りました。

また、1896年のアテネオリンピックでは考慮されなかったものの、1900年のパリオリンピックと1904年のセントルイスオリンピックにおいては、それぞれ3つのクラブチームによるサッカー試合が行われ、1908年からはサッカーが正式種目となり、その後の全五輪大会で採用されました。

そのような背景もあって、4年に一度開かれるオリンピックが、事実上サッカー世界大会の役割を担っていましたが、国際オリンピック委員会(IOC)はプロ選手の出場を相応しくないと考え、1925年に、全競技においてアマチュア選手以外の出場を認めない「アマチュア規定」を策定したのです。

しかし、FIFA はこのアマチュア規定がある限り、各国が全力でぶつかり合う大会は成立しないと考え、オリンピックとは別個の国際大会を実施すると決断しました。

その結果、1930年にウルグアイで第1回サッカーワールドカップが開催されることになったのです。

4年後の第2回大会に関しては、初回で開催国に立候補していたけれど採用されなかったお詫びとしてイタリアに決まり、1938年の第3回大会はアルゼンチン・ドイツ・フランスが名乗りを上げ、投票の末、フランスが選出されました。

そして、1942年に予定されていた第4回大会は開催地が決定する前に第二次世界大戦が勃発した影響で延期を余儀なくされたため、白紙に戻された選考手続が再開されたのは、1946年のことでした。

その際、スイスは各国の関係に深い傷が残った戦後に実施するなら、永世中立国唯が最適であると主張し立候補しましたが、選考委員会は小国での開催に対して否定的だったことから、戦災を免れたことを根拠に、1950年の第4回大会の開催国にブラジルを指定したのです。

さらに、次回の1954年の第5回大会については、既にスウェーデンが有力候補に挙がっていたので、スイスに再びチャンスが巡ってくるのは、早くても8年先の第6回大会になると絶望していました。

そこで、スイスは1954年が自国に本部を置くFIFAの創立50周年記念であることを理由に、スウェーデンに対して立候補することを取り下げてほしいと呼びかけたところ、なんとスウェーデン側はその願いをあっさりと受け入れたのです。

こうして、1954年の第5回サッカーワールドカップを開催する国は、唯一の立候補国となったスイスに決まりました。

 

逆転劇の決勝戦で盛り上がった波乱万丈のスイス大会

 

このように、色々あって実現したスイスでのサッカーワールドカップですが、本大会は、第1回大会以来採用されなかったグループステージと決勝トーナメントによる大会方式が復活したことが、大きな特徴でした。

ただし、第1回大会ではそれぞれのグループ1位のみが決勝ラウンドに進み、準決勝と決勝だけが行われたのに対し、スイス大会では各グループの上位2チームが次のステージに進出して準々決勝・準決勝・3位決定戦・決勝を繰り広げた点が異なり、その後に開催された全てのワールドカップにおける大会方式の原型になったと言えます。

また、スイス大会は初めてテレビで中継されたワールドカップでもあり、視聴率と観客数を考慮して、強豪国がグループステージで敗退するのを極力避けるために、シード制だけでなく、同じグループのチームが決勝戦を除いて決勝トーナメントで再び対戦しない仕組みも新たに導入されたのです。

この条件のもと、16の出場国が4つのグループに分かれて、1954年6月16日から7月4日まで世界最強チームの称号を賭けて熱い戦いを繰り広げました。

会場となったのはチューリッヒ(Zürich)、ルガーノ(Lugano)、ジュネーヴ(Genève)、ローザンヌ(Lausanne)、バーゼル(Basel)、ならびにベルン(Bern)の6カ所でした。

グループステージでは予想通りにシード権を有していたブラジル、ハンガリー、ウルグアイ、オーストリアおよびイングランドがそれぞれ決勝ラウンドに駒を進めた一方、2度の優勝経験があるイタリアは、開催国でありながらもノンシードだったスイスに負けて早くも敗退した他、同じくノンシードのユーゴスラヴィアと西ドイツも勝ち残ったという展開になりました。

続く準々決勝では、まずオーストリアとスイスが対戦してオーストリアが勝利しましたが、7対5という未だに破られていないワールドカップ史上最多ゴールを記録したことで大いに盛り上がりました。第4試合のハンガリーとブラジルによる対決では、両チーム合わせて3人の選手が退場させられるなど過去にない大喧嘩に発展したのです。

さらに、準決勝ではそのハンガリーが前回王者のウルグアイを下して決勝に進出しました。

そして、決勝戦の相手はなんと偶然にもグループステージで既に一度戦ってハンガリーに大敗を期した西ドイツだったのです。

2度目の対戦とはいえ、折角ここまで来た西ドイツも、再び同じ結果にならないための戦略を練って挑みました。

決勝はベルンのスタジアムで行われました。しかし、西ドイツは僅か開始8分でハンガリーに2点のリードを許してしまい、試合開始早々に嫌なムードが漂い始めたのです。

西ドイツはすぐさま反撃に出て何とか同点に持ち込んだものの、その後はひたすらハンガリーの猛攻に耐えるのに必死でした。

誰もがハンガリーの勝ち越しは時間の問題であると確信していた矢先、試合終了6分前に西ドイツが数少ないチャンスを活かして得点し逆転に成功したのです。

直後にハンガリーもゴールを決めたのですが、それが残念ながらオフサイド判定で認められず、結局サッカーワールドカップのスイス大会は2対3で西ドイツの優勝で閉幕しました。

 

ハンガリー(黒い(実際は赤い)ジャージ)と西ドイツ(白いジャージ)による決勝戦の様子 (写真:Unknown author – Comet Photo AG (Zürich)、CC BY-SA 4.0

 

ベルンの奇跡

 

冒頭でも言及した通り、スイスのサッカーワールドカップは「ベルンの奇跡」が起きたことでも知られますが、上記でご説明した大会の流れだけでは具体的に何が奇跡だったのかピンと来ない方も多いのではないでしょうか?

そこで、今からその詳細をお話いたします。

皆様は「サッカーの強豪国」のイメージについて聞かれると、おそらくブラジル、ドイツ、イタリア、アルゼンチンなどを思い浮かべ、百歩譲ってもハンガリーを挙げる人はいないでしょう。

しかし、スイス大会が開催された1954年当時は、逆に世界中がハンガリーを無敵のサッカー大国として認めており、大半の人々は先発メンバーの名前を言えるほど偉大な存在だったのです。

というのも、ハンガリーは1952年のヘルシンキオリンピックおよび1953年の欧州大会(正確にはその前身である「国際ヨーロッパカップ」)でそれぞれ優勝しただけでなく、1953年11月にサッカー連盟が設立されて以来90年にわたって自国で行われた国際試合においては、ヨーロッパ本土の相手に一度も負けたことがなかったイギリスを、その首都ロンドンで初めて倒すという偉業も成し遂げたチームでした。

それらの出来事もあって、ハンガリーは1950年6月以降の公式戦で、32試合連続無敗記録を打ち立てて「マジック・マジャール」や「ゴールデンチーム」と称され、1954年のサッカーワールドカップスイス大会に出場した際は、優勝杯を手にするのはハンガリーで間違いないと思われていたのです。

しかも、ハンガリーはその期待に応えるように、グループステージを全勝1位で通過し、決勝トーナメントでは前回大会準優勝のブラジル、さらに2度の優勝経験を持って前回王者にも輝いたウルグアイに勝利して決勝戦に進んだことに加え、決勝戦の相手は本大会で既に一度対戦して8対3で下した西ドイツだったことから、誰もがハンガリーの優勝を確信していました。

特に、ドイツに関しては終戦直後に西と東に分断されて、それぞれがアメリカとソ連の統治下に置かれた他、戦犯裁判や戦災復興など、今までに経験したことがない厳しい状況に置かれていたのです。

その結果、戦後は会費を納めることができず、1945年にFIFAから除名され、1950年に西ドイツ、ならびに1952年に東ドイツとしてFIFAへの再加盟が許可されたものの、以前のナチス政権が残した負のイメージによって各国から仲間外れにされて、親善試合をしてくれる相手すら殆どいませんでした。

したがって、当時の西ドイツがワールドカップ予選を勝ち抜いたこと自体が異例で、本大会に出場した16チームの中で完全にアンダードッグと見なされていたのです。

それでも、西ドイツはグループステージで対戦したトルコが選手の途中欠場で西ドイツに有利に働き、準決勝ではユーゴスラビアのオウンゴールにも助けられるなど、組み合わせと試合展開において運が何度も味方してくれたお陰で、予想外の決勝進出を果たしました。

そして、決勝戦では僅か18日前に大敗を期して決着がついていたハンガリーとの再戦だったので、誰ひとり西ドイツが勝利するとは夢にも思っていなかったのですが、そこでまさかと言える「ウサギとカメ」のお話に匹敵する世紀の番狂わせがベルンのスタジアムで起きたのです。

それ故、この対決は「ベルンの奇跡」として歴史に刻まれることになりました。

 

ベルンの奇跡が起きたサッカーワールドカップスイス大会当時のヴァンクドルフ・スタジアム (写真:Werner Friedli、CC BY-SA 4.0

 

 

ベルンの奇跡がもたらしたその後の影響

 

このように、スイス大会の決勝戦で勝利した西ドイツは、サッカーワールドカップで初優勝し、今振り返れば、それは数あるスポーツイベントの出来事のうちのひとつに過ぎないのですが、ベルンの奇跡はその後ドイツとハンガリーの両国で、サッカーの領域を超えた影響をもたらしたと言えます。

特に、ドイツにとっては戦争で多くのものを失い、先行きが見えない戦後の闇にサッカー代表チームの優勝という光が再び差し込んだかの如く、全国民を歓喜に包み、前を向く希望を与えました。

なかでも、連合国ならびにソ連の支配下によって完全に消えかけていた自尊心が復活し、「ドイツはまだ終わっていない」や「ドイツはこれからやり直せる」との自信が芽生えるきっかけになったのです。

その結果、西ドイツは日本と同様に1950年代の後半から経済の急成長を遂げ、短期間で経済大国へと発展しました。

サッカーに関しても、ドイツはその後のワールドカップでそれぞれ3度の優勝と準優勝に加え、3位決定戦を2回制した他、計3大会で得点王を獲得し、現在も破られていない通算得点王記録(ミロスラフ・クローゼ選手)を保持するなど輝かしい成績を修め、誰もが認める強豪国へと躍進したのです。

一方、ハンガリーでは決勝戦直後に代表チームに対する失望と不満を爆発させた国民によるデモが首都ブダペストで勃発し、帰国した選手団が秘密警察に保護されるほどの騒動に発展しました。

また、西ドイツの勝ち越しを許したことで、ハンガリー代表のゴールキーパーだったジュラ・グロシチ選手(Gyula Grosics)は見せしめのためにスパイ行為と反逆罪で告発・軟禁された他、複数の選手が国外への逃亡を余儀なくされるなど、様々な当事者やその親族にまで被害が及んだのです。

また、歴史学者の間では直接的な関係はないとされているものの、当時の関係者の多くは、この一連の出来事が2年後の1956年に起きた「ハンガリー動乱」と呼ばれる蜂起の火種でもあったと考えています。

そして、サッカーにおいても同様で、ハンガリーはスイス大会以降に6回のワールドカップ出場を果たすも、殆どグループステージで敗退しており、1986年のメキシコ大会を最後にワールドカップの舞台から姿を消すことになったのです。

そのため、今ではハンガリーにかつて欧州最強と謳われ、ワールドカップの優勝候補とされた「ゴールデンチーム」がいたことがまるで嘘のように思えるくらい、サッカー界でその存在が薄れています。

 

現在もベルンにあるヴァンクドルフ・スタジアム(Stadion Wankdorf)の跡地に建っている1954年のワールドカップ決勝戦で使用された試合時計と結果(ベルンの奇跡)を示す記念板 (写真:Martin Abegglen、CC BY-SA 2.0

 

以上がサッカーワールドカップスイス大会とベルンの奇跡についてのお話ですが、如何でしたか?

ワールドカップの開催に合わせたネタとはいえ、このような内容は学校でもなかなか教えてくれないので、今回の記事がサッカーファンはもちろんのこと、そうでない方にとっても普段とは一味違う歴史の授業を楽しむ機会になったのであれば幸いです。

また、「ベルンの奇跡」は上述の通り、それに至った背景やその後もたらした影響から、サッカー史の中で起きた単なる出来事に留まらず、それ以上の意味を持っていることをご理解いただけたのではないでしょうか?

比較対象になるかは分かりませんが、日本の皆様からすれば「ドーハの悲劇」も単なる敗北ではなく、悔しさを力に変えて、日本サッカーの将来を大きく左右した決定的な試合として記録に残っています。

したがって、サッカーは22人が1個のボールを追いかけるだけの競技であると言える一方で、ときには勝ち負けの範囲を超えた影響力を持つことがあることを知っていただきたいです。

そして、今回のワールドカップでもそのような歴史的な瞬間が訪れる可能性があるので、自国を応援するだけでなく、他の出場国がどのようなミラクルを巻き起こすかという点にも注目してみてください。

では

Bis zum nöchschte mal!

Birewegge

 

★サッカー大国ドイツの歴史的背景がうかがえる記事でしたね! サッカーについてはこちらの記事もチェック!

サッカー – トランスユーロアカデミー

ドイツサッカー!強さの秘密 – トランスユーロアカデミー

 


今回の対訳用語集

日本語 標準ドイツ語 スイスドイツ語
ワールドカップ Weltmeisterschaft

(ヴェルトマイスターシャフト)

Wältmeischterschaft

(ヴェルトマイシュテルシャフト)

フィーバー Fieber

(フィーバー)

Fiäber

(フィエベル)

開催地 Austragungsort

(アウストラーグングスオアート)

Uustragigsort

(ウーストラーギグスオルト)

二酸化炭素 Kohlendioxid

(コーレンディオクスィート)

Cholledioxid

(ホレディオクスィート)

絶望する verzweifeln

(フェアーツヴァイフェルン)

verzwiifle

(フェルツヴィーフレ)

取り下げる zurückziehen

(ツリュックツィーエン)

zruggziäh

(ツルックツィエー)

視聴率 Einschaltquote

(アインシャルトクヴォーテ)

Iischaltquote

(イーシャルトクヴォーテ)

反撃 Gegenangriff

(ゲーゲンアングリッフ)

Gägeaagriff

(ゲゲアーグリッフ)

同点 Punktgleichstand

(プンクトグライヒシュタント)

Punktgliichstand

(プンクトグリーヒシュタント)

勝ち越し Punktführung

(プンクトフュールング)

Punktfüerig

(プンクトフュエリク)

 

参考ホームページ

ドイツ連邦政治教育センター:FIFAサッカーワールドカップの歴史

https://www.bpb.de/shop/zeitschriften/apuz/29763/die-geschichte-der-fifa-fussballweltmeisterschaft/

FIFA公式ホームページ:ベルンの奇跡

Das Wunder von Bern | BR Deutschland – Ungarn | WM 1954

FIFA公式ホームページ:ハンガリーのゴールデンチームによるゴールラッシュ

Ungarns Goldene Elf im Torrausch | FIFA Fussball-Weltmeisterschaft 1954™コンラート・アデナウアー・シュティフトゥング:ドイツサッカー代表チームが初の優勝タイトルを獲得~ベルンの奇跡~

https://www.kas.de/de/web/geschichte-der-cdu/kalender/kalender-detail/-/content/die-deutsche-fussballnationalmannschaft-holt-den-ersten-weltmeistertitel-es-ist-das-wunder-von-bern

 

 

 

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