スイス最年少の州都ドゥレモン
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過去に本ブログにおいて掲載した記事「スイスの連邦州を意味する「カントン」について」で、現在のスイスが26の州から構成されている他、国会レベルで隣国の地域を新たな州として加盟させるか否かの議論が何度か交わされてきたことなどについても言及させていただきました。
様々な事情を考慮した結果、1815年にジュネーヴ州(Canton de GenèveまたはKanton Genf)がスイス連邦に加わって以来、新たな加盟州の誕生は実現しなかったものの、今でも相手国の承認を得て、影響を受ける地域住民の過半数が賛成していることを前提に憲法で定められた手続きを踏み、国民投票で可決されれば、スイスの領土や国境が変わっても決して不思議ではないことをお分かりいただけたかと思います。
実際に州の新規加入(あるいは離脱)はなかった一方、既に加盟している州においては、領土の割譲や交換が度々行われてきました。
また、ひとつの州を2つの州(準州)に分割したり、それらを再統一したりする事例に加え、2州が合併を試みるケースも過去に何度か起きています。
特に、前者の分割に関しては、今から僅か47年前の1979年にスイス憲法の改正を伴う、完全に独立した自治州として、ジュラ州(Canton du JuraまたはKanton Jura)が新たに創設される結果をもたらしました。
そればかりか、当該独立はそれ以降も世間を騒がせた一連の騒動の火種となり、今年に入ってからも大きな動きがあったのです。
したがって、今回はそんな「スイス最年少の州」として知られるジュラ州およびその州都であるドゥレモン(Delémont)をご紹介させていただきます。

ベルン州から分離独立して新たな州を形成した元司教領
ジュラ州は、バーゼル市(Basel)からほど近いスイス北西部の国境沿いに位置し、東フランスと西スイスに跨る「ジュラ山脈」(Massif du JuraまたはJuragebirge)の山々に囲まれた諸渓谷から構成されます。
ジュラ山脈は、氷河期においてアルプス山脈の大規模な氷河の拡張を防ぐ壁となっていたことから、雪解け水による土壌侵食を免れたため、かつて存在したテチス海の浅海に堆積した地層に加え、スイスで最も古い先史時代の遺跡が多く残っている地域として有名です。
そのため、現在のフランスの県名ならびにスイスの州名だけでなく、地質時代名のひとつである「ジュラ紀」の語源にもなったことで知られています。
このような背景もあって、当該地方の歴史は考古学的研究によって概ね解明されており、遅くとも青銅器時代には多数の集落が存在し、人口が大幅に増加し始めたとされているのです。
紀元前1世紀にローマ帝国がアルプス以北を征服した際の記録では、ケルト人の一派であるセクアニ族(Sequani)、ラウラキ族(Rauraci)およびヘルヴェティイ族(Helvetii)がジュラ地域の居住者だったと記されています。
それらの諸部族はローマ帝国に統合され、4世紀に帝国が崩壊するまでは、要塞や街道建設などインフラ整備を積極的に進めていました。
その後、ジュラ山脈を含む一帯の地域はフランク王国、ならびに843年に行われたその分割でブルグント王国の管理下に置かれ、999年に最後のブルグント王であるルードルフ3世(Rudolf III.)が、現在のスイスに属するジュラ地方の大部分をバーゼル司教に贈与したことで、バーゼル司教領(Fürstbistum Basel)の一部となったのです。
以降、バーゼル司教は隣接する土地を次々と取得し、領土の拡大を図った他、領内の住民が他の貴族へ寝返ることを阻止するために、複数の都市に自治権を付与しました。
とはいえ、16世紀初頭に始まった宗教改革では、バーゼル市とその直属の地域が司教から独立してプロテスタント都市国家を設立したため、バーゼル司教領の範囲はジュラ地方のみに減少してしまったのです。
そして、18世紀末に起きたフランス革命の影響によって、フランスから地理的に近かったバーゼル司教領は真っ先にフランス軍の標的となり、一旦はフランス政府が実質的に支配する姉妹共和国にされ、その僅か3カ月後の1793年3月にフランスに併合されました。
しかし、1815年に皇帝ナポレオンの完全な失脚をもってフランス第一帝政が崩壊すると、ヨーロッパの秩序再建を目的に開かれたウィーン会議にて、フランス領土を縮小する機運があった一方、バーゼル司教領の復活は好ましくないと考えられたので、旧司教領だったジュラ地方をベルン州(Kanton Bern)に帰属することで合意したのです。
当時、この決定に異議を唱える者はいなかったのですが、1950年代にジュラ地方において以前から存在していた独立運動が本格化し、数々の住民投票を経て、1979年にドゥレモン市を州都とする「ジュラ州」を創設することになりました。
内戦になっても不思議ではなかった少数民族の戦い
このようにジュラ地域の歴史をざっくり纏めましたが、実を言うとジュラ州の設立は上記のように一言で説明できるほど簡単ではなく、その背景には1815年にジュラ地域がベルン州に帰属されたことに始まり、現在も解決していない200年以上続く「ジュラ問題」(Question jurassienneまたは Jurafrage)があります。
というのも、バーゼル司教領として神聖ローマ帝国の一部だったジュラ地域は、数百年にわたってアイトゲノッセンシャフトの加盟州であるベルン州とは異なる国家に所属していたことから、全く別の文化と歴史を有していました。
具体的に言うと、ドイツ語圏に属し、工業化が進んでいて宗教的にも主にプロテスタントであるベルン州本土に対して、ジュラ地域では住民の大半がフランス語を話し、カトリック教徒である他、農業およびそれに関連する業種が主産業となっていたので、最初から言語的・宗教的な違いがあったことに加え、政治的方向性や関心も一致しませんでした。
そのため、既に1830年代頃からベルンによる支配に反発する声が続出し、20世紀前半に進められたジュラ地方のドイツ語化によって反抗心が芽生えて、分離主義を掲げる団体まで現れるようになったのです。
そして、その思想は1947年に起きた「メックリ事件」(Moeckli-Affäre)をきっかけに本格的な独立運動へと変わりました。
ジュラ地方出身でありながらもベルン州の行政院議員だったジョルジュ・メックリ(Georges Moeckli)は、前任が死去したため空席となっていた建設鉄道長官の役職に立候補しましたが、州議会はなんと「当該役職は重要度が高すぎてフランス語話者には任せられない」との理由でそれを却下したのです。
この出来事は、州政府内にジュラ地方の住民を「下等人種」と見なす差別的な体制があることを露にし、それを解決するにはジュラ地域がベルン州から分離独立する以外ないと主張する組織「ジュラ連合」(Rassemblement jurassien)が結成されました。
当該組織は、州憲法において不平等な扱いを受けている少数派「ジュラ民族」の認知に加え、フランス語が公用語の地位を得るという一定の成果を上げたものの、ジュラ地域の離脱を絶対に許さないベルン州政府の方針によって独立を実現できないままでした。
また、不満を抑えきれなかったジュラ連合の青年団である「ベリエ団」(Groupe Bélier)が、兵役拒否や国会での審議を妨害するなどして全国民の注目を集め始めた他、別の団体が国会議員の所有地ならびに軍事施設を狙った放火と爆弾テロを繰り返し、いつ内戦が勃発してもおかしくない状況になったのです。

分離独立で終わらなかったジュラ問題
度重なるテロ行為によって、スイス全国の報道記者が次々とジュラ問題に着目し、「国内で北アイルランドの如き事態になっている」と報じたことで、ベルン州政府もようやく危機感を持ってこれまでの考えを改め、ジュラ地域の分離独立に関する住民投票を実施する決断を下しました。
こうして1974年6月23日にジュラ地方全域で新たな州の創設を問う投票が行われ、賛成多数で可決したのものの、ジュラ地域に属する計7郡のうち、北部に位置する3郡が賛成を表明した一方、南部の3郡と最東端の1郡では経済的な懸念からなんと反対派が優勢だったのです。
この結果を踏まえ、反対の意見が多かった4郡では新州への加入もしくはベルン州への残留を問う個別の住民投票が1975年3月15日に開かれ、その全てが改めて現状を維持する意思を示したので、結局、北部の3郡だけが独立し、他の4郡はベルン州に残る結果に終わりました。
とはいえ、一部の自治体は郡の投票結果に納得できず、新たに誕生するジュラ州への編入またはベルン州への残留を希望する声を上げたことから、1975年9月と10月に、将来的に州境となる市町村においてのみ3度目の投票を実施し、8つの自治体が新たにベルン州からジュラ州に移り、ジュラ州に含まれる予定だった2つの自治体が、逆にベルン州に戻ると決めたのです。
その後、憲法改正ならびに全国レベルで、新州の創設を承認するための国民投票を経て、ジュラ州は1979年1月1日付で、26番目の州として正式にスイス連邦へ加盟することになりました。
これにて長きにわたるジュラ問題は解決したと思われましたが、ジュラ州の誕生から僅か5年後の1984年に、ベルン州政府が巨額の裏金を使って、ジュラ地域の分離独立を阻止する目的で住民投票を操作していたという前代未聞の事実が、内部通報によって判明したのです。
それに伴い、ジュラ連合は連邦裁判所に対して、1975年に実施された2回目と3回目の投票結果の無効化と再投票を求めました。
連邦裁判所の調査では、ベルン州政府による不正介入があったことは確認された一方、再投票の要求は失当としました。
したがって、ジュラ連合は戦略を変えて、当該不祥事がジュラ地域を南北に分断したと主張し、その責任を追及することにしたのです。
同時に、ベリエ団がベルン市にある「正義の噴水」を破壊するなど、テロ行為が再び頻発し始めました。
中でも1993年に起きたベルン市庁舎を標的にした爆弾テロ未遂は、当時全国を揺るがすほどの大事件でした。
そこで、このままでは本当の内戦に発展し得ると恐れた連邦政府は、第三者委員会を設置し、ジュラ地域の再統一に関する住民投票を実施することで、ジュラ問題の最終解決を図ると発表しました。
ムーティエ市の離脱
連邦政府が設置した第三者委員会は、各関係者と協議を進め、ジュラ州とベルン州の両政府の合意を得た後、ベルン州に残留したジュラ地域南部をジュラ州に統合する件についての投票が2013年11月24日に行われましたが、またしても南北で意見が別れて現状維持の結果に終ってしまいました。
ただし、当該投票においては、賛成派が多数だった自治体が2年以内にジュラ州への編入を申請した場合、個別の投票を実施する権利が留保されるという追加規定が設けられており、なんとジュラ地域南部で最も人口が多いムーティエ市(Moutier)がそれを行使すると表明したのです。
そして、全ての準備が整った2017年6月18日にムーティエ市で住民投票となり、賛成51.7%に対して反対48.3%という僅差で、ジュラ州に編入することが決まりました。
しかし、その直後に複数の不服申し立てが寄せられ、ベルン州ジュラ地方の総督は、投票の際に不正があったことを理由に投票結果を無効としたのです。
注目度の高い投票だったが故に選挙管理は徹底されていたので、総督の決断に不信感を抱く者も少なくはなかったものの、一刻も早い再投票を実施するために、異議を唱える人はいませんでした。
こうして2021年3月28日に再投票を迎え、一切の不正がないように、スイスでは史上初となる連邦法務省が自ら選挙の管理と運営を担当することになりました。
これほどの大事になったからには全国民が投票を見守り、気になる結果は前回のそれを上回る54.9%の賛成多数で、ムーティエ市がベルン州に別れを告げてジュラ州に移ることを確定させたのです。
それを踏まえて関係する両州政府は、すぐさま手続きと準備に取り掛かって、2026年1月1日付で、ムーティエ市が正式にジュラ州の一部としての一歩を踏み出しました。
これにてスイス連邦政府はジュラ問題が最終的に解決したと公表し、ジュラ州政府もこれ以上再統一を話題にしないと誓っています。
とはいえ、ジュラ地域南部において最大の都市であり、周辺一帯で唯一の総合病院などを有するムーティエ市が別の州に移ったことで、隣接する市町村にとっては政府から支給される予算の削減を始め、様々な意味で生活環境が大きく変わると予想され、今後ジュラ州への帰属を望む自治体が現れても不思議ではありません。
さらに、ベリエ団も「ジュラ地域の再統一が実現するまで当団は活動を継続する」と宣言しており、200年以上続くジュラ問題は、未だに終息していないと考えるのが妥当です。

ジュラ州の成立史を物語る都市
歴史的背景の話が少々長引いてしまいましたが、スイス最年少の州を巡っては、2世紀以上に亘って複雑な状況下にあったジュラ民族の奮闘が深く関係しています。
ドゥレモン市が州都に選ばれた理由に関しても、司教領時代にバーゼル司教の離宮が建っていた他、その後ベルン州の総督府が置かれたことで古くからジュラ地域の中心地を担っていた一方、元々ジュラ地域が分断されず全7郡で構成される想定では、その地理的中央に位置していたという背景があります。
737年の文献で「デレモンテ村」(figo Delemonte)として初めて登場し、1131年にそのドイツ語名である「テルスペルク」(Telsperg)も確認されているドゥレモンは、ライン川の支流であるビルス川(BirsまたはBirse)とソルン川(Sorne)が合流する地点のやや西にある高台に築かれた旧市街から発展した、人口12,000人の小都市です。
1271年にバーゼル司教領の一部になった際、ドゥレモンは既に城郭に囲まれた、東西に延びる2本の通りと南北に走る3本の筋を有するほぼ長方形な町だったことが分かっており、その南西の角に領主司教の城、北東の角には監視塔が設けられました。
1487年に町の大部分が焼失する火事が発生し、18世紀にも大半の建物を対象に大規模な再開発が行われたため、創建当初の建造物は残念ながら殆ど残っていません。
また、19世紀の産業革命で2つの工業地区に加え、転車台付き機関庫を有する駅の建設に伴い、旧市街を囲むように商業地区と住宅地が誕生して現在の形になりました。
したがって、ドゥレモンは歴史都市でありながらも近代的な部分が多く、1979年に州都になってからは、特にジュラ州を象徴する一面を持つようになったのです。
というのも、ドゥレモンにはジュラ地域の分離独立にまつわる名称を持つ様々な通りや広場が存在し、その代表例とも言えるのが旧市街のメインストリートであり、ジュラ州の創設が決まった投票の日付を表す「6月23日通り」(Rue du 23-Juin)、ならびにその中間に位置する「自由の広場」(Place de la Liberté)です。
他にも、ジュラ連合の事務総長を務め、独立運動の立役者として知られる人物を称える「ロラン・ベグラン広場」(Place Roland-Béguelin)および「ロジェー・シャフテル広場」(Place Roger-Schaffter)があり、旧市街のあらゆる場所でジュラ州の成立史に関連する地名が見受けられます。
このようにドゥレモンは1000年以上の歴史を誇る都市である一方、住民にとっては、上記でもご説明した過去数十年の出来事が如何に大きな意味を持っているかを、窺うことができます。

中世の城郭都市の趣が残る街並み
このように、主に近代史的に着目される一面を有するドゥレモンですが、旧司教領時代の痕跡も少なからず現存します。
例えば、かつて旧市街を囲んでいた城郭の一部に加え、東西南北に設置されていた計4つの門のうち、西門(Porte de Porrentruy)と北門(Porte au Loup)も残されていて、中世に城郭都市だったことを感じさせているのです。
さらに、旧市街を見渡すと、かなり古い噴水がいくつもあることに気付きます。
それらは何れも、地元出身の彫刻師が16世紀後半に造った後期ルネッサンス様式の記念碑的な噴水で、近づく人々の注目を集めるその豪華な装飾からは、当時の住民にとって日常的に欠かせない重要品だった背景が窺えます。
しかし、ドゥレモンのシンボルとも言えるのは、やはり旧市街の南西に聳えるドゥレモン城(Château de Delémont)です。
元々領主司教が夏を過ごすための離宮に使用されていたこのお城は、14世紀後半から存在していたお城を取り壊して1721年に創建された、コの字型の宮殿です。
外観はバロック様式になっている一方、内装には部分的にゴシック様式とルネッサンス様式が見受けられ、フランスおよびドイツの建築スタイルから影響を受けたことも垣間見えます。
また、裏手には庭園として整備された、表面加工が施された切石積みのテラスがあります。
ドゥレモン市内で最大の建造物にして、国の重要文化財に指定されているドゥレモン城は、19世紀前半に領主司教の逃亡により市の管理下に置かれ、当初は小学校、中学校、ならびに職業訓練学校の校舎になっていましたが、現在は小学校のみが入っている他、貸会議室、コンサート会場、ワインバーなどを含む多目的文化施設です。
そして、お城の対角線上、即ち旧市街の北東には、城郭と一体化していて監視塔が設けられているゴシック様式の豪邸もあります。
これは元々13世紀に建てられた貴族の邸宅だったものの、1627年に領主司教が購入して代官所を設置していました。
その後、改築を経て、19世紀に入るとベルン州の総督府と地方裁判所として利用され、2000年代以降はジュラ州議会の議事堂になっています。

史跡と自然を同時に満喫できるスポットが豊富
ドゥレモンを特徴付けるもうひとつの要素が、市街地を囲む壮大な自然です。
上述の通り、ジュラ州は元々農業を主産業とする地域で、現在も多くの市町村には農耕用の田畑や畜産業が営まれている牧草地が点在します。
そのため、ドゥレモン市を起点に様々なハイキングコースやサイクリングロードがあり、観光客の間では都市部だけでなく、ジュラ山脈を初め、当該地域ならではの自然を満喫するのも人気の高い楽しみ方です。
中でも、著しい来訪者数を誇る目的地になっているのが、ドゥレモンの旧市街から3.5キロメートル北に向かった先に位置する「フォルブールの礼拝堂と城跡」(Chapelle et ruine du Vorbourg)です。
これは町への北玄関口を監視する目的で11世紀に豪快な断崖絶壁の頂上に建造された上城と、中腹に建てられた下城から構成される史跡で、1356年の大地震で大部分が倒壊したものの、下城だけは1499年のシュワーベン戦争で破壊されるまで、騎士の居城として使用されていました。
1586年に、以前から下城の一角にあった聖母マリアを崇拝する礼拝堂を小規模な教会に再建して以来、岩壁に聳える要塞のような教会建築という話題性もあって、年間を通して多くの人々が訪れる、ジュラ州で最も有名な巡礼地になっています。
そして、市街地から約2キロメートル北東の小さな丘に建つ「ドモン城」(Château de Domont)もまた非常に魅力的な場所です。
このお城は、元々上記のフォルブール城を居城とし、後に貴族の称号が与えられて領主司教に仕えた騎士の一族が1561年に築いた後期ゴシック様式の館ですが、僅か数十年で早くも無人となったため、1600年に市の管理下に置かれました。
その後は、長い間特定の使い道がなく、近代に入って2階にある「騎士の間」を折衷主義建築に改築してドゥレモン城にあった内装品を移設した他、1950年代に螺旋階段を有する塔をリフォームし、現在は郷土料理が味わえるレストランになっています。
池と林に囲まれた自然豊かな立地に加え、旧市街から歩いて行けるほど距離が近いことから、地元住民にとっての憩いの場であると同時に、サイクリングなどを楽しむ観光客が好んで立ち寄る場所です。
特に暖かい季節は庭にテーブル席が設けられ、お城の前で素晴らしい眺めを堪能しながら食事をするという非日常的な体験ができるので、大人気スポットになります。

以上がジュラ州の歴史とその州都ドゥレモンのご紹介になりますが、如何でしたか?
日本の皆様からすれば、まさか永世中立国として有名なスイスが少数民族問題を抱えていて、その影響で過去にテロ行為が度々起きて内戦が勃発する恐れまであったことなど、想像もできなかったでしょう。
しかし、上記でもご説明したように、当該問題は現在も解決したとは言い切れず、今後更なる動きが予想されますが、少なくとも安全保障上危険な状態ではありません。
したがって、観光目的であれば安心してジュラ州をご訪問いただけます。
また、「ジュラ紀」の名前の由来にもなった場所でもありますので、恐竜好きや先史時代に関心のある人には是非一度足を運んでいただきたいですし、ジュラ山脈の渓谷はアルプス山脈のそれとは一味違うので、自然を満喫したい方に強くお勧めできます。
という訳で、ガイドブックなどでは普段あまり注目されないものの、意外と魅力的なスイス最年少の州を訪れてみてはどうですか?
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
今回の対訳用語集
| 日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
| 対抗心 | Widerstandshaltung
(ヴィーダーシュタンツハルトゥング) |
Widerschtandshaltig
(ヴィデルシュタンツハルティク) |
| 不平等 | Ungleichheit
(ウングライヒハイト) |
Ungliichheit
(ウングリーフハイト) |
| 内戦 | Bürgerkrieg
(ビュルーガークリーク) |
Bürgerchriäg
(ビュルゲルフリエク) |
| 懸念 | Sorge
(ゾアーゲ) |
Sorg
(ソルク) |
| 残留 | Verbleib
(フェアーブライプ) |
Verbliib
(フェルブリープ) |
| 追加規定 | Zusatzbestimmung
(ツーサッツベッシュティンムング) |
Zuäsatzbschtimmig
(ツエサッツプシュティミク) |
| 行使する | Gebrauch machen
(ゲブラウフ・マッヘン) |
Gebruuch mache
(ゲブルーフ・マッヘ) |
| 生活環境 | Lebensumgebung
(レーベンスウムゲーブング) |
Läbensumgäbig
(レベンスウムゲビク) |
| 離宮 | Sommerpalast
(ソンマーパラスト) |
Summerpalascht
(スンメルパラシュト) |
| 立役者 | zentrale Figur
(ツェントラーレ・フィグアー) |
zentrali Figur
(ツェントラーリ・フィグール) |
参考ホームページ
ドゥレモン市オフィシャルサイト
ジュラ州観光庁オフィシャルサイト:ドゥレモン
https://www.j3l.ch/de/Z10777/reiseziele/staedte/delemont
ドゥレモン地方観光協会オフィシャルサイト
スイス歴史辞典:ドゥレモン市
https://hls-dhs-dss.ch/articles/002938/2020-06-15/
スイス歴史辞典:ジュラ州
https://hls-dhs-dss.ch/articles/007399/2025-12-18/

スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。

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