スイスで生まれた禁断のお酒アブサン

皆様は「アブサン」というお酒をご存知でしょうか?

実際に飲んだことがある人はさほどいなくても、フランスで多くの画家や作家が愛飲していたことでその名前を知っている方は少なくないと思います。そのような経緯から大半の人はアブサンがフランスのお酒であるとの認識をお持ちですが、実はその発祥地はフランスではなくスイスなのです。

したがって、今回は認知度が高いものの、その詳細についてはあまり知られていないスイス生まれのアブサンをご紹介いたします。

 

ニガヨモギを原材料とするリキュール

 

アブサンは18世紀にスイスのヌーシャテル州(Canton de NeuchâtelまたはKanton Neuenburg)にあるヴァル・ド・トラヴェール(Val-de-Travers)で生まれた、ニガヨモギ(学名:Artemisia absinthium)を主原料に、様々なハーブを混ぜて造られるリキュールです。

名前はギリシャ語でニガヨモギを指していた「アプシンティオン」(apsinthion)およびラテン語の「アブシンティウム」(absinthium)に由来しますが、現在多くの言語で使用されている呼び名はフランス語で同様の意味を持っていた「アブサント」(Absinthe)から来ています。

伝統的な製造法では原材料のハーブを中性スピリッツに浸してリーチングしてからハーブに含まれる苦みのある成分を取り除くために蒸留します。

したがって、大半のアブサンではアルコール度数が45~90%と比較的高いのが特徴的です。また、ニガヨモギを使用しているため、ビターリキュールに分類されることが多いのですが、味が必ずしも苦いとは限りません。むしろ、苦い場合は伝統的な製法が用いられていないか、蒸留の工程を省略した低品質の偽造品であることを裏付けることが多いとも言えます。

スイスではアブサン製造にニガヨモギの他にアニス、ウイキョウ、ヒソップ、レモンバーム、ならびに中央ヨーロッパを原産とする別のヨモギ(学名:Artemisia pontica)を使用するのが一般的ですが、産地によってはアンゼリカ、クワガタソウ、コリアンダー、ジュニパー、ショウブやニクズクなども配合されます。

そのため、アブサンは基本的に緑色を帯びたお酒となり、古くから「緑の妖精」(La fée verte)の愛称でも知られています。

ニガヨモギ

 

医薬品として誕生したお酒

 

アブサンの発祥地がスイスのヴァル・ド・トラヴェールであることは複数の文献によって証明されていますが、その誕生については諸説あり、現在もはっきり分かっていません。

ニガヨモギは古代エジプトやギリシャでも既に薬草として使用されており、中世ヨーロッパでも様々な症状に対する効果があるとして薬剤に調合されていたことが確認されています。

そのため、ニガヨモギをワインに混ぜることもあり、ヴァル・ド・トラヴェールではそれが習慣になっていたことを記載している1737年の記録が残っています。

同じ頃、その地域で医者として働いていたフランス人のピエール・オルディネール博士(Dr. Pierre Ordinaire)がニガヨモギを蒸留した液体を患者に処方したと伝えられており、近くに住んでいたアンリオ家(Familie Henriod)がその製造法を基にアブサンを開発して医薬品として販売したとされています。

しかし、当該医師が以前からアンリオ家に伝わるアブサンの製造法を改良し、製薬に応用したとする真逆の説もありますので実際の考案者が誰なのか解明されていないのが現状です。

唯一確実なのは、1797年にアンリ・ルイ・ペルノー(Henri Louis Pernod)がアンリオ家から製造法を入手し、最初のアブサン蒸留所を開いたことです。

その後、アブサンの需要が急激に増加したため、ペルノー以外の村人も次々と蒸留所を設立し、僅か数キロしか離れていない国境を越えたフランスでも複数の蒸留所が誕生しました。

需要増加の主な原因はフランス軍がアルジェリアを侵略した際に兵士の間で広がる疫病を治療するためにアブサンを配布したことだと言われています。

また、戦地から帰国したフランス兵が故郷でもアブサンを求めたことから、アブサンは瞬く間にフランス全土で広まりました。

ヴァル・ド・トラヴェールにあるフルーリエ村(Fleurier)

 

フランスで社会現象と社会問題を引き起こしたお酒

 

19世紀後半になるとパリ(Paris)を中心に、フランス各地で「緑の時間」(L’heure verte)が流行り、夕方にアブサンを飲むことが一般庶民の習慣になります。

また、ワインよりも安価だったため、労働者だけでなく、水商売の女性でも手軽に飲めるとして、その人気は急上昇しました。

特に、さほど裕福でなかった当時の芸術家や詩人までもがアブサンを購入できたので、ポール・ゴーギャン(Paul Gaugin)やヴィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)を始め、アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)やオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)などもアブサンの愛好家であったことで知られています。

それ故、アブサンは数々の絵画や小説の題材にもされ、あのパブロ・ピカソ(Pablo Picasso)も愛飲家を描いた複数の作品を残しています。

しかし、それらは必ずしもアブサンを称賛するものではなく、中にはアブサンに起因するアルコール依存症によって身を滅ぼした人や罪を犯した人物など様々な社会問題を反映しているものもあります。

そのため、当時は多数の医師がアブサンに高い依存性と向精神作用があり、健康被害を及ぼす様々な有害物質が含まれていると主張していました。

これは安価なアブサンの製造を試みた結果、アミル・アルコールやメタノールの混入、そして硫酸銅を着色料として使用したことが主な原因なのですが、フランスの医師会を初め、競合相手でもあったワイン製造者はその有害性を理由にアブサンの規制を求める抗議を行うようになります。

そして、1905年にスイスのヴォー州(Canton de VaudまたはKanton Waadt)で起きた一家殺害事件で犯人が犯行前にアブサンを飲んでいたのが報道されたことをきっかけに、ヨーロッパのほとんどの国とアメリカでアブサンの製造、流通、ならびに販売が禁止されます。

 

 

禁断のお酒としてのアブサン

スイスでも国民投票を経て、1910年にアブサンが禁止されましたが、100年以上もアブサンの製造と販売が重要な収入源になっていたヴァル・ド・トラヴェールでは表向きには蒸留所を閉鎖したものの、自宅で密かにアブサンを造り続けていた人も少なくはありませんでした。

正確な数字は確認できていないのですが、60件以上の民家で禁止後もアブサンが密造、ならびに密売されていたと推測されています。

さらに、摘発を逃れるため、アブサンを緑以外の色に着色したり、家宅捜索で製造用の器具が発見されないように洞窟で蒸留したり、実に様々な工夫を凝らして警察との鼬ごっこが繰り広げられました。

そもそも、アブサンを規制することで禁断のお酒に仕立て上げたことがあえて話題性を呼び、密造を煽ったと言えます。

これは特に戦後に広まったアブサンに関する数々の噂からも窺えます。私自身も高校時代に「アブサンを飲むと緑の妖精に会える」や「ゴッホの自傷行為はアブサンの作用」など恐怖と同時に興味を沸かせるあらゆる話を耳にしたことを覚えています。

また、アブサンは複数の映画にも登場し、その多くではジョニー・デップ主演の「フロム・ヘル」(Form Hell)のように麻酔性など特殊な作用があるお酒として視聴者の好奇心をそそる演出になっています。

このように、アブサンが禁断のお酒だったが故にそれに神秘性が見出され、その希少価値まで上がったのです。とはいえ、ヨーロッパの一部でアブサンの禁止は科学的根拠に基づくものではないとして訴訟が起こされたため、2000年を機に各国で次々とアブサンの解禁が始まります。スイスにおいてもアブサンが2005年に再び合法化され、現在はそれを知的財産として保護するIGP認証の取得に向けた動きまであります。1

 

 

アブサンの正しい飲み方

 

アブサンは他のお酒と同様にストレートで飲むことも可能ですが、アルコール度数が高いので、基本的に水で割るのが一般的です。

しかし、アブサンの場合は単に水を注ぐのではなく、儀式とも呼ばれる独自の方法を用いて水を足します。

この方法は最盛期にフランスのバーやカフェで確立したもので、唯一正しい飲み方とされていますので覚えておきましょう。

まず、グラスに少量のアブサンを入れます。

次に、平坦で穴の開いた専用のスプーンを水平にしてグラスの上に置き、角砂糖をスプーンに乗せます。

そして、可能な限り冷えた水を1秒1滴の速度で砂糖に垂らし、溶けた砂糖を含む水が落ちてアブサンと混ざるのを見届けます。

好みによってアブサンが1:3から1:5の割合で薄まれば完成です。

この方法は少々時間を要するため、アブサンを提供するお店の多くでは注文の際に蛇口付きの水差しなど専用の道具を配ります。

砂糖は苦味を抑える目的で使用されるので、さほど苦味のないアブサンであれば不要ですが、水の温度と注ぐ速度は非常に重要で、これらの工程を必ず遵守する必要があります。その理由はウーゾ効果としても知られている自然乳化にあって、これは低い温度の水を少量ずつ加えた場合にのみ発生し、香りの広がりや飲んだ時の味を大きく左右します。

昔の愛好家もその重要性に気づいていたことから、手間暇の掛かる方法を考案したと思われます。

蛇口付きの水差しを用いて水を注いだアブサン

 

アブサンに関するご紹介はお気に召していただけたでしょうか?

日本ではアブサンが法的に規制されていなかったことから欧米諸国ほど話題性を呼ばなかったようですが、太宰治先生の「人間失格」を始め、色々な作品に登場するだけあって、その神秘性を採り上げる人も少なからずいました。

また、覚えていらっしゃる方もほとんどいないとは思いますが、実は過去にサントリーが「ヘルメス」の名でアブサンを製造していた時代もありました。

しかし、日本ではアブサンはまだまだ一般的に知られていないマイナーなお酒ですので、アブサンを飲んだことがないという読者には是非一度試していただきたいです。

今やインターネットを通じて本場スイスのアブサンを入手することが簡単なだけでなく、合法でもあるため、ヴァル・ド・トラヴェールにある蒸留所の中から自分の好みに合ったアブサンを見つけて購入してみては如何ですか?

もちろん、可能であれば、250年以上の歴史を誇る、スイス西部の自然豊かなアブサンの里に足を運び、蒸留所巡りを楽しんでいただきたいところですが、まずはご自身のお口と趣味に合うお酒かどうかを確認してから行かれることをお勧めします。

では

Bis zum nöchschte mal!

Birewegge

 


1出典:スイス連邦議会、プレスリリース:https://www.admin.ch/gov/de/start/dokumentation/medienmitteilungen.msg-id-65615.html

 

今回の対訳用語集

日本語 標準ドイツ語 スイスドイツ語
ニガヨモギ Wermut

(ヴェアムート)

Wermuet

(ヴェルムエト)

ギリシャ語 Griechisch

(グリーヒシュ)

Griächisch

(グリエヒシュ)

蒸留する destillieren

(デスティリーレン)

deschtilliere

(デシュティリエレ)

Geschmack

(ゲシュマック)

Gschmack

(クシュマック)

効果 Wirkung

(ヴィアクング)

Wirkig

(ヴィルキク)

健康 Gesundheit

(ゲスントハイト)

Gsundheit

(クスントハイト)

閉鎖する schließen

(シュリーッセン)

schlüsse

(シュリューッセ)

洞窟 Höhle

(ヘーレ)

Höhli

(ヘーリ)

冷えた gekühlt

(ゲキュールト)

gchüelt

(クヒュエルト)

注ぐ eingießen

(アインギーッセン)

iigüsse

(イーギューッセ)

 

参考ホームページ

アブサン博物館「メゾン・ド・ラブサント」

https://www.maison-absinthe.ch/page.php?id=de3&label=home

スイス外務省、ハウス・オブ・スイツァランド:「緑の妖精の復活」

https://houseofswitzerland.org/de/swissstories/gesellschaft/schweizer-regionalprodukte-die-wiederauferstehung-der-gruenen-fee

ヌーシャテル州観光庁オフィシャルサイト:ヴァル・ド・トラヴェール

https://www.j3l.ch/de/Z12123/val-de-travers

ヴァル・ド・トラヴェール市オフィシャルサイト(フランス語のみ)

https://www.val-de-travers.ch/

 

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